白象の気まぐれコラム

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zoom RSS 東慶寺(鎌倉)と並ぶ徳川幕府公認の縁切寺・満徳寺(群馬県太田市)を訪ね千姫(豊臣秀頼の正室)を想う

<<   作成日時 : 2017/01/23 07:10   >>

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群馬県太田市にある縁切寺満徳寺を訪ねました。 「縁切寺」は「駆け込み寺」とも呼ばれ 上掲の写真は 縁切寺満徳寺の駆け込み門です。

江戸時代 時宗の尼寺であった満徳寺は 鎌倉の東慶寺と並ぶ縁切寺として知られ この二寺のみが徳川幕府公認の縁切寺として存在しえたのは 徳川家康の孫娘で豊臣秀頼の正室だった千姫にかかわる由緒にあります。

豊臣秀頼の正室となった千姫は 祖父・徳川家康の命により大阪夏の陣(1615年)で落城する大阪城から救出された際に 身代わりの尼を満徳寺に入寺させ 自らは桑田藩主の嫡男・本田忠刻と結婚しています。 その後 秀頼と側室の間の娘・天秀尼が処刑されそうになった時に 千姫は天秀尼を自らの養女にして命を救い 東慶寺に入れ住職にし 東慶寺の伽藍(仏殿)を寄進しています。

このような満徳寺と東慶寺にかかわる千姫との由緒から この二寺のみ縁切寺としての特権を徳川幕府から特別に認可されたものです。

夫側からの離縁状である三行半(みくだりはん)交付にのみ限定されていた江戸時代の離婚制度において 縁切寺は 夫との離縁を達成するために妻が駆け込んだ寺で 寺は夫に内済離縁(示談)を薦め 調停がうまく行かない場合に妻は寺入りとなり足掛け3年(実質満2年)経つと寺法にて離婚が成立しました。 調停にあたって 夫をはじめとする当事者を強制的に召喚し 事情聴取を行ったとされています。

大坂城落城の際 徳川家康は豊臣秀頼の正室である孫娘・千姫のことを心配し『千姫を助けた者には、姫を嫁に与える 大名にもしてやる』と約束し これを受けて石見津和野藩主・坂崎出羽守直盛が燃え盛る大坂城へ突入 山姥の槍を振るって奮戦し 千姫を救い出したが その際 顔に火傷を負い醜い面相になったそうです。

約束通り千姫を嫁に貰おうと徳川家に申し入れた坂崎でしたが 醜い面相の坂崎を千姫が嫌ったので 話がまとまらず 約束した家康が死んでしまった後に 二代将軍・秀忠は名門本田家の嫡男・忠刻の元へ千姫を稼がすことにします。 武士の面目を潰された坂崎は 一族を集めて兵を挙げたので 坂崎と親交の深い将軍家剣術指南役・柳沢宗矩が説得し 坂崎の自刃で騒動が収まっています。 これが世に知られた「千姫事件(坂崎事件)」で 津和野藩坂崎家は その後 取り潰されています。 江戸城落城後の千姫にこのようなことがあったことを 初めて知りました。

満徳寺は檀家(だんか)を持たず 徳川家の庇護にのみ依存していたので 江戸幕府が瓦解するとともに、明治5年(1872)に廃寺を余儀なくされました。 もう一つの縁切寺である鎌倉東慶寺が、最後の尼僧が逝去した後も、男僧の寺として存続しているのと相違します。 その後の満徳寺は 地元住民がかつての本堂を縮小・移築して本尊・位牌類を維持管理し 縁切寺資料館にて関連資料を展示しています。

蛇足ながら(言うまでもなく) 千姫は 浅井長政と正室・お市の方(織田信長の妹)の間に生まれた3女の末娘・江の長女で 3女の長女は秀吉の側室・茶々です。 千姫の弟が徳川3代目将軍・家光です。

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明治5年に廃寺となった縁切寺満徳寺の遺跡

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遺跡と復元された旧本堂

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旧伽藍の敷石など

画像満徳寺を開山した浄念尼の墓石横面に千姫の名が刻まれているが千姫の墓は小石川伝通院にある

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中門の奥に見えるのが復元された旧本堂


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復元された旧本堂内にある歴代徳川将軍の位牌

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縁切寺満徳寺資料館

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