白象の気まぐれコラム

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zoom RSS 遠藤周作の原作「沈黙」とスコセッシ監督の映画「サイレンス」はどこが最も異なるか?

<<   作成日時 : 2017/03/22 05:46   >>

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映画「沈黙----サイレンス」の“あらすじ”を 先のブログ記事 神の存在を問う遠藤周作原作の映画「沈黙----サイレンス」を観て想う で紹介しました。 その中で書いたことですが この映画のハイライトは 目の前で拷問されている信徒たちを救う為に 自ら踏絵を踏んで棄教すべきか迷う司祭ロドリゴが 次のような神の声を聞く場面です。

踏むがいい お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている 踏むがいい 私はお前たちに踏まれるため この世に生れ お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。

この声を聞き ロドリゴは踏絵を踏んでいます。 祈っても祈っても沈黙したままで救ってくれない神が この場面になって銅版の踏絵の中から急に沈黙を破りロドリゴにこのように声をかけたというのは 映画だけの話なのか チョット疑問に思ったので 遠藤周作の原作を読み直したところ 原作もそのようになっていました。

しかし読み直してみて 原作と映画が最も異なる点は 原作の中でのみ 「踏むがいい」という神の声をロドリゴが聞き踏絵を踏んだと言っていると知った長崎奉行・井上筑後守が少し後に対面し次のような会話をしていることです。

井上: そこもとは踏んだあと フェレイラに 踏絵の中の基督が転べと言うから転んだ(棄教した)と申したそうだが それは己の弱さを偽るための言葉ではないのか。 その言葉 まことのキリシタンとは この井上には思えぬ。
ロドリゴ: 奉行さまが どのようにお考えになられてもかまいませぬ。
井上: 他のものは欺けてもこの余は欺けぬぞ。 

井上筑後守は かつてキリスト教に帰依して洗礼を受けましたが 島原の乱後に棄教して隠れキリシタンを弾圧して踏絵を踏ます側になった人です。 従って 井上筑後守はキリスト教とは何か良く理解しており 「この余は欺けぬぞ」という言葉には重みがあります。

原作者の遠藤周作は 神の声が本当に聞こえたのか否か 明確にしないまま「沈黙」という小説を終えていますが 神の声が聞こえたかどうかは 神の存在を問うこの小説の本質でないからではないでしょうか?

上掲の写真は 「沈黙」刊行50周年を記念して長崎の遠藤周作記念館が主催したシンポジウムをまとめた本「遠藤周作と沈黙を語る」(長崎文献社)です。 シンポジウムで講演した遠藤周作の研究家・ヴァン・ゲッセル氏は 「踏むがいい」という日本語は「踏め」とは異なるので どう解釈するかにより「神の声」が本当に聞こえたのか ロドリゴの妄想だったのか 神の許しの言葉なのか ロドリゴの弱さを叱る言葉なのか 意味が異なるという興味深い指摘をしています。

「沈黙」を英訳した本は 「踏むがいい」を「Trample=踏め」と英訳しているそうです。  「踏め」」という意味に解釈すると「神の声」の意味を誤解する恐れがあるので ゲッセル氏は 「It is all right. Go ahead and trample」の如く許しの言葉で英訳すべきと語っています。

「踏むがいい」は許しの言葉であり 「踏め」では許しの言葉にならないというのは 小説「沈黙」を正しく解釈する上で重要なポイントであり 「名から鱗が落ちる」思いがしました。

映画の中で「踏むがいい」をどう英訳したか 残念ながら私は聞き逃してしまいましたが もし分かる方が居られたら 是非 教えてください。

踏絵を踏んだロドリゴは仏教徒に改宗させられますが スコセッシ監督は ロドリゴが死んで火葬される際に十字架を手の中に隠している姿を撮っています。 これは原作にない部分であり 仏教徒に改宗させられてもロドリゴは心の中でキリストを信じ続けたというスコセッシ監督独自の解釈は 原作の核心を補う重要なポイントになっていると思いました。

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