白象の気まぐれコラム

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zoom RSS 徳川三代将軍・家光の生母は乳母・春日局(福)とする福田千鶴の論証に共感

<<   作成日時 : 2017/06/14 13:09   >>

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福田千鶴著「春日局」(ミネルヴァ書房)を読みました。 この本の中で 著者は「徳川三代将軍・家光の生母は乳母・春日局(福)である」という論証(傍証を積み上げた推論)をしています。

徳川家の正史では 長男の夭折後に 二代将軍・秀忠と正室・江が次男・家光と三男・秀忠を生んだことになっており 両親は出来のいい三男を可愛がり 次の将軍にしたいと願ったそうです。 しかし乳母・福(後の春日局)が駿府の家康に「安定した世の中になったので将軍職を長子に相続させないと家中に争いが起き乱れる」と直訴し 家康はそのことを聞き入れ 3代将軍・家光から武家の家督相続を「長子相続制」にしています。

乳母が正室・江を差し置いて駿府の家康に直訴するというのは尋常でありませんが 家光の生母だから出来たようです。 春日局(1579〜1643年)が松平信綱 柳生宗徳と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられ 幕政だけでなく大奥でも絶大な権力を持ったのは 「家光の生母」ということを周りが“忖度”したからです。 

武家の後継者順位は 当時 長幼より摘出の方が優先されていたので 次男・家光が乳母の子なら 正室の子である三男・忠長の方を可愛がり後継者にしたいと願うのは当然であり 乳母・春日局としては家康に直訴するしかなかったようです。 

家光の生母を福とする論証として 著者は次のことを指摘しています。

1. 福(後の春日局)は前夫(稲葉正成)との間に3人の子を持ったが 3人目の子は養子であり実子でなかったので 家光の生母でないと乳母役は果たせない。
2. 江は「家光の誕生日(1604年7月17日)を誰にも話してはならない」と周囲に命じていた。
3. 家光の出産は江を母とすると 次女が生まれてから10か月未満なので 明らかに生み月が足りない。
4. 秀忠の子で 長男・長丸の早世後に 秀忠と江が3男の忠長を可愛がり将軍後継者にしたいと願ったのは 次男・家光が側室・福の子だったのに対して 三男・忠長は正室・江の実子であったからだ。
5. 江の葬儀は家光でなく忠長が担当した。
6. 結論として 福は正室・江の侍女(女中)として大奥に入ったが 秀忠の子・家光を生み 側室に取り立てられ春日局として大奥を取り仕切る存在になった。


福は前夫(稲葉正成)との間に二人の子をもうけており 離婚後に大奥に入り秀忠の子を産むというのも考え難いことですが 大奥制度が未整備の時代だったので「何でもあり」だったようです。

春日局は辞世の句として「西に入る月を誘い 法(のり)をへて 今日ぞ家宅を逃れけるかな」と詠んでいます。

「火宅」とは 仏教用語で「この世が苦しみの世界である」ことを意味しますが 福(春日局)の一生は決して傍から見るほどに幸せなものではなく 苦しみの連続であったようです。 明智光秀に仕えた父・斉藤利三は本能寺の変で処刑され 不仲だった前夫との離婚後に江戸城では後継将軍を誰にするかで正室・江との確執に苦しみ 三代将軍になれなかった忠長は恐らくそのことが原因で荒んだ生活をするようになり家光により自害させられたことなどを考えると 春日局は 死を前にして火宅の世からようやく逃れられることに安堵したのだと思います。

福(春日局)が実母であることについて 著者は決定的な証拠を示しているわけではなく 傍証(状況証拠)を積み上げて論証していますが 実母と考えるのが最も合理的と私は思いました。
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春日局の菩提寺・麟祥院(東京文京区)が保有する狩野探幽筆の「春日局像」

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