白象の気まぐれコラム

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zoom RSS 中尊寺・新覆堂を訪ね風雨に晒されたままだった金色堂の創建当初50年を想う

<<   作成日時 : 2017/07/10 06:31   >>

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上掲の写真は 金色堂の覆(おお)いとして風雨から守るために鉄筋コンクリートで造られた中尊寺の新覆堂です。 愚かな私は今まで この新覆堂そのものを金色堂と誤解していましたが 今回 中尊寺を初めて訪ね 金色堂は新覆堂の中のガラスケースに収められていると知りました。

奥羽藤原氏初代・清衡が中尊寺を建立したのは1124年で 金色堂は中尊寺創建時の建物(伽藍)の中で現存する唯一の遺構です。 

金色堂は 建立された当初 建物を覆うものが何もなかったので 約50年の間 風雨に晒されたままでした。 その後 簡素な屋根がかけられ 鎌倉時代の1288年になって金色堂を外側からすっぽり包む木造の旧覆堂が建設され 1963年に金色堂の解体修理時に現在の新覆堂が完成しています。

金箔で貼られ黄金色に輝く金色堂を旧覆堂のない創建時に見た拝観者たちは 驚愕したのではないでしょうか? マルコポーロは 1298年に「東方見聞録」を出版し その中で日本のことを「黄金の国ジパング」と紹介しましたが マルコポーロは日本を訪れたことがないので 中国で聞いた何にも覆われていない頃の金色堂の噂話を紹介したようです。

松尾芭蕉は 1689年に金色堂を訪ね 「五月雨(さみだれ)の 降り残してや 光堂」と詠んでいます。 光堂とは金色堂のことで 「年々降り続いて 全てのものを朽ちさせてきた五月雨も この金色堂だけは降り残したのか 500年経った今もその名の如く光輝いている」というのが句の意味です。

芭蕉が見た金色堂は旧覆堂の中なので 五月雨が金色堂のみ「降り残す」というのは考えられないことですが 燦然と輝く金色堂を強調するために 五月雨が降り残したと表現したのだと思います。

金色堂内陣の須弥壇内に 中尊寺を造立した初代・秀衡 毛越寺を造立した二代・基衡 源義経を奥州に招いた三代・秀衡の遺体(ミイラ)が納められており 頼朝の圧力に屈し義経を自害に追いやった四代・泰衡は 頼朝に攻められた際に部下の裏切りで1189年に斬首され その首は桶に入れられ秀衡の遺骸と共に納められています。

1950年の調査で 秀衡の首を収めた桶の中から100個余りのハスの種が発見され 中尊寺蓮という名をつけられ2000年に境内の池で開花しています。 秀衡の首桶にハスの種を入れた理由は良く分かりませんが 泰衡没から811年後に開花したハスの実の生命力に驚きました。
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中尊寺入口の月見坂

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中尊寺の表参道「月見坂」

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本堂の山門

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金色堂の新覆堂

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金色堂の旧覆堂

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松尾芭蕉像

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新覆堂内のガラスケースに収められている金色堂。 (中尊寺ホームページからの転用写真)

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金色堂内陣とご本尊・阿弥陀如来(ホームページからの転用)

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