白象の気まぐれコラム

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zoom RSS 源義経終焉の地「高舘義経堂」にて松尾芭蕉の見た“兵どもが夢の跡”を想う

<<   作成日時 : 2017/07/13 06:39   >>

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上掲写真は 源義経(1159〜1189年)終焉の地に建つ「高舘義経堂」への入口です。 高館は 奥州平泉の北上川と衣川の合流地点より1キロほど南の北上川に面した丘陵で 中尊寺から歩いて10分ほどの東南にあります。

高舘義経堂は もともと奥州藤原氏の居館(衣川館)があった所で 兄頼朝と対立して逃亡の末に藤原秀衡を頼った義経は その一角に居館を与えられますが 1187年に秀衡が亡くなると 跡を継いだ泰衡は頼朝の圧力に屈し 1189年に衣川館を攻め 義経はこの地で妻子と共に自害したと伝えられています。。

上掲写真の石段を上った突き当りを左に行くと 義経の像を祀る義経堂と秀衡・義経・武蔵坊弁慶の主従供養塔があり 右に行くと「夏草や 兵どもが 夢の跡」と詠んだ芭蕉句碑があります。

芭蕉句碑は 門人・曽良を伴い1689年にこの地を訪れた松尾芭蕉が 「奥の細道」の中で 100年にわたり栄華を極めた奥州藤原氏や志を遂げずに散った義経主従を追想したもので 次の如く刻まれています。

三代の栄耀一睡の中にして大門の跡は一里こなたにあり
秀衡が跡は田野になりて金鶏山のみ形を残す
先ず高館に上れば北上川南部より流るる大河なり
衣川は和泉が城をめぐりて高館の下にて大河に落ち入る
泰衡等が旧跡は衣ヶ関を隔てて南部口を差し固め夷を防ぐと見えたり
さても義臣すぐってこの城にこもり巧名一時の叢(くさむら)となる
「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」と笠うち敷きて時の移るまで涙を落とし侍りぬ

「夏草や兵どもが夢のあと」

高台にある高舘義経堂と芭蕉句碑からは 平泉随一という美しい眺望が夏草の生い茂る先に開け 眼下に北上川 その向こうに秀峰・束稲山(たばしねやま、別名・東山)が見えました。

武蔵坊弁慶は 衣川館の入口にて義経を守って最後まで戦い 雨の様な敵の矢を受けて立ったまま死んだことから「弁慶の立往生」と後世に語り継がれています。 弁慶は謎の多い人物で 実在すら疑われていますが 中尊寺の参道(月見坂)入口には 弁慶の遺骸を葬った場所として 武蔵坊弁慶大墓碑が建てられています。

私は2年前の5月に 義経が幼少期を過ごした鞍馬寺を訪ね その時のことを 京都市街の最北にある鞍馬寺〜貴船神社を歩き牛若丸(源義経)を想う に書きました。 今回 終焉の地「高舘義経堂」を訪ね 幼少期を京都で過ごし 平家を壇ノ浦で滅ぼし 静御前と吉野山にて身を潜め 未だ30歳という若さで平泉にて自刃した義経の数奇で波乱万丈の人生を想いました。
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高舘義経堂の石段

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義経の像を祀る義経堂

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源義経供養塔(主従供養塔)

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松尾芭蕉句碑(夏草句碑)

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高舘義経堂からの眺望

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中尊寺参道(月見坂)入口にある弁慶墓碑

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