50歳を過ぎて奄美大島に移住し新たな画風を切り開いた孤高の画家・田中一村の作品を千葉美術館にて見る

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田中一村(1908-77)の名前を私が初めて知ったのは3年前に仕事で奄美大島に行ったときで その時に奄美大島に「田中一村記念美術館」があると聞きましたが 時間がなく訪問できませんでした。

今回 9月12日に放送されたNHKテレビ番組・新日曜美術館「田中一村 奄美の陰影」を見ていたら 田中一村展(写真上)を千葉美術館にて9月26日まで開催中とあったので 早速 出かけ見てきました。

田中一村は明治41年(1908年)に栃木県栃木町(現・栃木市)にて生まれ 4歳のとき一家そろって東京に移り住みます。 幼少の頃から大人顔負けの画才を現わし『神童』と呼ばれた早熟の天才は、7歳の時に児童画展で文部大臣賞を受賞し、10代の頃には、蕪村などを擬した南画(水墨画)を自在に描いています。 昭和1年(1926年)、東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学 同期に日本画壇の主流を歩んだ東山魁夷などがいましたが、自らと父の発病により、わずが3ヵ月で退学し、その後は南画を描いて一家の生計を立てます。 昭和13年(1938年)に千葉へ移住し院展や日展などの公募展へ出品し落選を繰り返し挫折してからは 中央画壇と一線を画し、独立独歩の道を歩みます。 そんな中で 昭和33年(1958年)12月に50歳になった田中一村は奄美大島への移住を決め 新しい画風を切り開きますが 生前それらの作品を公表する機会もないまま昭和52年(1977年)に無名のまま没しています。 

奄美大島行きを決定させたのは何だったのか 本人はその理由を明らかにしていませんが それまでの作風から一転した画家として再出発しない限り自分の未来はないと悟り 心機一転 自らを新しい環境に追いやり 亜熱帯の植物や鳥などを題材にした今までとは全く異なる陰影のある独特の日本画を描き新たな境地を見出しています。  

東京の中央画壇で認められぬまま奄美大島に移住する悔しさと悲しさは 田中一村に当然あったようで 昭和34年(1959年)に書いた友人への手紙の中で「絵の実力だけでは、画家として決して世間の地位は得られません。 絵描きにはパトロンがなければ駄目と言われます。 東京で地位を獲得している画家は、皆資産家の師弟か、優れた外交手腕の持主です。 私にはその何れもなく 絵の実力だけです」と田中一村は書き残しています。

千葉美術館での「田中一村展」を見て一番強く感じたのは 奄美大島に行く前と後では 田中一村の画風が全く異なるものになっていることです。 奄美大島に移住するまで絵描きとして実力のある田中一村が中央画壇で受け入れられなかったのは パトロンも外交手腕も無かったからというより それまでの南画的な暗い画風が一般受けするものでなかったからと私には思えました。 

奄美大島で新しい画境に達した田中一村は タヒチに移り住んだゴーギャンに似たものがあります。 奄美大島でクワズイモの花が咲き朽ちるまでの生老死(命の循環)と神を描いたという田中一村の最高傑作「不喰芋と蘇鉄(クワズイモとソテツ)」は ゴーギャンがタヒチで人間の生老死と神を描いた傑作「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」とテーマが極めて似ていると思いました。
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田中一村の最高傑作「不喰芋と蘇鉄(クワズイモとソテツ)」。 中央の海中に立つ岩は「立神」。 蘇鉄(ソテツ)の雌花と雄花は生命の誕生を意味し 蘇鉄の花は生老死の経過(命の循環)を示していると言われる

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代表作の一つ「アダンの海辺」

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千葉美術館「田中一村 新たなる全貌」

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田中一村展の第2会場入口

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