白象の気まぐれコラム

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zoom RSS 会津若松の飯盛山にて会津藩と白虎隊の悲劇を想う

<<   作成日時 : 2010/10/22 07:21   >>

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裏磐梯の五色沼自然探勝路を散策してから自宅へ車で戻る途中 会津若松の飯盛山に立ち寄りました。 3年ほど前に鶴ヶ城(若松城)の天守閣に登った時に 飯を椀に盛ったような姿をした飯盛山が見えたことを急に思い出し 白虎隊の墓(写真上)を訪ねてみる気になったからです。

飯盛山にある白虎隊士の墓は テレビ番組で見ると鬱蒼たる木立の中にあるので 何か陰鬱な場所を想像していましたが ふもとの石段のまわりはみやげもの店がひしめき 石段に有料のエスカレーターまでがついており テーマパークのある観光地みたいな雰囲気になっているので驚きました。

白虎隊(びゃっこたい)は 戊辰戦争(1868〜1869)に際して会津藩が組織した16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊で 飯盛山から市内が燃えている様を見て鶴ヶ城の落城と誤解し この地で20名が自刃を決行したものです。 20名の内の1名(飯沼貞吉)は一命を取り留め 19名とは別の場所に墓が設けられていました。

白虎隊士の墓の横には その死を悼んだ松平容保(会津藩9代目藩主 1836〜1893年)の歌碑が建てられており その内容は次のようなものでした。

「幾人の 涙は石にそそぐとも その名は世々に 朽じとぞ思ふ」

会津藩と松平容保の悲劇は 松平容保が京都守護職という京都における幕府の代表者格になったことから始まったと言われています。 この職に就くことについて 松平容保は当初固く辞退しますが受け入れられず 京都守護職として新撰組を差配して尊王攘夷を唱える長州人を含む多くの過激派志士を殺したことから 新政府軍の恨みを買い 戊辰戦争に巻き込まれ 会津戦争で会津藩の降伏となります。

鳥羽伏見の戦いに敗れた後 徳川慶喜がひたすら恭順の態度を示し許されたのに 松平容保のみなぜ許されなかったのか不可解ですが 司馬遼太郎は「歴史を歩く 白河・会津のみち」の中で 『明治維新というのは「革命」であり 革命である以上 革命の総仕上げとして「会津攻め」がなければ革命が形式として成就しなかったのである』と述べています。 革命の標的とされたことが会津藩と白虎隊の悲劇であり  革命の標的にされることになった一因は 京都守護職に就くことを藩主・松平容保が徳川慶喜から強要され断り切れなかったことにあるようです。

明治維新は 革命なので 謀略や陰謀を伴うのは当然ですが 謀略や陰謀を駆使したいわば「奸人」とも言える薩摩・長州人を相手にするには 会津人気質が余りに「生真面目」であったことも 会津藩の悲劇に繋がった一因ではないだろうか等と 飯盛山にある白虎隊士の墓前で想いました。
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白虎隊士の墓

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松平容保の碑文

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白虎隊士墓の前にある広場

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飯沼貞吉の墓

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飯沼貞吉の墓

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白虎隊士自刃の場所

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白虎隊士自刃の場所から鶴ヶ城方向を眺める隊士の像

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自刃の場所から見える鶴ヶ城のある会津若松市

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