四国最南端の足摺岬にて「ジョン万次郎」の数奇な人生を想う

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上掲の写真は 四国最南端の足摺岬に建つジョン万次郎(本名 中浜半次郎)の銅像で 足摺岬灯台に通じる足摺岬遊歩道入口にあります。 ジョン万次郎は 足摺半島西岸・中浜に生まれたことから 1968年にこの場所に銅像が建てられたものです。 

ジョン万次郎(1827~1898年)の生涯を簡単にまとめると以下です。

1827年 現在の土佐清水市中浜にて漁師の子として生まれる。 14歳の時に乘っていた漁船が遭難し太平洋の無人島・鳥島に漂着する。 米国の捕鯨船により救助されホイットフィールド船長の故郷であるマサチュセッツ州フェアヘブンにて船長の養子として学ぶ。 1846年から捕鯨船や金鉱の採掘場などで働き帰国資金を貯める。 1851年 鎖国中の日本に帰国 薩摩藩藩主・島津斉彬の厚遇を受け島津藩の藩士に洋式の造船術・航海術を教える。 1852年 土佐藩の士分に取り立てられ 藩校にて教える。 1853年 黒船来航の対応を迫られている幕府に招聘され 江戸にて直参の旗本の身分を与えられる。 当時 英語をまともに話せるのはジョン万次郎だけで マシュー・ペリーと交渉する通訳に適役と考えられたが 幕府要人からアメリカ側のスパイではと疑われ通訳としてではなく裏方として重要な役目を果たす。 1860年 遣米使節団の一員として勝海舟・福沢諭吉などと咸臨丸に乗り渡米する。 1869年 明治政府により開成学校の英語教授に任命される。 1870年 恩人ホイットフィールと米国にて再会する。 1898年 72歳で死去。

日本にいれば読み書きもできない漁師で終わったであろうジョン万次郎が開成学校(現在の東京大学)の英語教授にまで上りつめるには 本人の能力や尋常な努力だけでは難しく いくつかの幸運がありましたが 最大の幸運はホイットフィールド船長との出会いだったのではないでしょうか?

アメリカ人からはジョン・マン(英語:John Mung)という愛称で呼ばれ 帰国後は本名の中浜万次郎を名乗っており 「ジョン万次郎」という呼称は、1938年に直木賞を受賞した『ジョン萬次郎漂流記』(井伏鱒二)で用いられ広まったものであり、それ以前には使用されていないそうです。

ジョン万次郎は 坂本龍馬 板垣退助、中江兆民、岩崎弥太郎などに多大な影響を与えたと言われており 足摺岬のジョン万次郎像を訪ね その数奇な人生と共に幕末から明治にかけての多大な貢献を想いました。

ジョン万次郎の建つ場所から足摺岬遊歩道を歩くと 1914年に点灯された足摺岬灯台と海蝕による花崗岩洞門としては日本一大きい白山洞門(高さ16m 幅16m)があります。 足摺岬灯台に行くなら 少し足を延ばして白山洞門も是非訪ねてみて下さい。
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ジョン万次郎銅像

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足摺岬灯台

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足摺岬灯台からの眺め

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白山洞門

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白山洞門

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この記事へのコメント

びこ
2019年09月28日 06:32
ジョン万次郎のことを書いてくださり、ありがとうございました。

私も、10年くらい前に足摺岬でジョン万次郎像を見ました。

私はジョン万次郎のことは高知県出身の作家、山本一力の『ジョン・マン』を読んで、詳しいことを知りました。

最近は、また、ジョン万次郎より前に鳥島に漂着して生き延びた、漁師ではありませんでしたが、やはり土佐の廻船に乗っていた人のことが書かれた吉村昭の『漂流』をいう小説を読みました。

村形明子さんは高知に来られたときに中江兆民の生誕地に行きたいと言われたから、お連れしました。亡くなられた年の5月のことでした。そのときも、多少しんどかったのか、背中に背負っていた、大して大きくもないリュックを私の実家の近くの郵便局から宅急便で送ったことが記憶に残っています。

村形さんはジョン・マンのことはご存知でしたが、ジョン・マンに日本語の読み書きを教えた河田小龍のことはご存知なかったので、そのとき教えてあげました。たまたま、その後昼食を共にした得月楼に河田小龍の絵が飾られてあり、その絵を見つけたのは村形さんだったのは、さすがと思いました。得月楼は宮尾登美子の小説、『陽暉楼』の改名後の料亭です。
白象
2019年09月28日 07:50
ぴこ様
コメントを有難うごいます。 村形さんを中江兆民の生誕地に案内していただくなど 生前 貴女には色々とお世話いただいたようですね。 

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