侠客・清水次郎長の墓が立派なのは何故か?

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先日 日本平までドライブした時に 清水次郎長の墓と資料館が近くの梅蔭禅寺(清水市清水区)にあるというので寄ってみました。 写真上は その墓ですが とても立派なので驚きました。

梅蔭禅寺の近くには 清水次郎長の生家と船宿「末広」も復元されており 今回 これらも一緒に見てきたので 清水次郎長の全体像について良く理解できました。

清水次郎長(1820~1893年)は「侠客(きょうかく)」として知られていますが 「侠客」とは 新明解国語辞典によると「江戸時代に義侠を売り物にして徒党を組んでいた者の称」とあります。 ついでに「義侠」も調べたら「一身を犠牲にしても強者をくじき弱者を助けてやろうという気性に富むこと」とありました。

侠客・清水次郎長は「強者をくじき弱者を助けることを売り物にして徒党を組んだ親分」というだけでは 何のことか理解できませんが 義侠を売り物にして(必要な時には人も殺す)アウトローの世界に生きた「ばくち打ち(博徒)の親分」「ゴロツキの長」「やくざの親分」「ただの悪党?」というのが実態だったようです。

清水次郎長の前半生は このように忌まわしい面を持ちましたが 明治元年(1868年)になって新政府により積年の罪科を免じられ 帯刀を許された上に 駿府(静岡)の治安維持を命じられています。 当時 清水次郎長は千人を超える手兵(子分)を抱えており 明治新政府としては 維新直後で未だ物情騒然な中で 駿府(静岡)の治安維持に清水次郎長の力を借りる必要があったようです。

次郎長の「義侠」を示すものとして有名なのが咸臨丸事件です。 明治元年9月 旧幕府海軍の咸臨丸が清水港にて停泊中に新政府海軍により発見され 交戦した咸臨丸の船員が殺されますが 次郎長は逆賊として放置されていた遺体を収容し手厚く埋葬しています。 このことを咎めた新政府に対し 次郎長は「死者に官軍も賊軍もない」とつっぱね男を上げています。

それ以来 地域の顔役として 清水次郎長は 清水港の発展 英語熟による人材育成 冨士裾野の開梱事業などを手掛け 地域の発展と社会公益に寄与しています。 清水次郎長は榎本武揚 山岡鉄舟など明治政府高官との交流も多く 後半生の活動は明治政府から高い評価を受けています。

清水次郎長の墓が立派なのは何故か? それは「前半生でなく後半生の活動が高く評価されたから」ということを 今回 清水湊を訪れて初めて知りました。 ちなみに 梅蔭禅寺にある清水次郎長の墓碑は 榎本武揚の筆によるものです。
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清水次郎長の墓(中央の尖がった墓石)。 左右に 大政 小政 森の石松 夫人(3人)などの墓がある

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清水次郎長の生家

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生家の室内

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次郎長が開業した船宿「末広」

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