桂浜(高知市)を訪ね徳川慶喜に大政奉還を決意させた坂本龍馬の功績を想う

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上掲の写真は 桂浜(高知市浦戸)の坂本龍馬像です。 昭和3年に建てられた高さ5.3m(台座を含めると13.5m)の銅像で 桂浜の小高い丘から太平洋の彼方を見つめています。

坂本龍馬(1836~1867年)については良く知られえているので 説明するまでもありませんが その生涯を簡単にまとめると以下です。

土佐郷士(下級武士)の家に生まれ 千葉周作道場にて剣を学び 脱藩して勝海舟に師事し 志士として活動した。 貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(のちの海援隊)を結成し 1866年の薩長同盟の成立に尽力した。 徳川慶喜に大政奉還を決意させるが その1か月後に京都の近江家にて中岡慎太郎とともに暗殺された。

坂本龍馬の生涯で最大の功績は 薩摩藩と長州藩が武力討幕路線に傾斜していた中で 政治綱領となる「船中八策」を作成し 政権を天皇に返上する大政奉還を藩論とすることについて前土佐藩主・山内容堂の理解を得 後藤象二郎を通して大政奉還の建白書を単独で将軍・徳川慶喜に提出し 慶喜の合意を得ることに成功したことです。

このように考えると 坂本龍馬は明治維新をもたらした最大の功労者と言えますが 明治維新後に忘れられた存在になっています。 何故そうなったのかは 色々な理由が考えられますが 明治政府の中核となった薩長出身のリーダーとしては 土佐藩の坂本龍馬が明治維新の功労者として注目されては困るからではないでしょうか?

坂本龍馬の名が急に注目されるようになったのは 日露戦争開戦時に 葉山御用邸にて静養していた昭憲皇太后(明治天皇妃)が寝ていると 白衣を着た30代の武士が夢枕に立ち 一礼してから「私は、維新で多少の働きをした『坂本龍馬』と申すものです。 日露戦争では海軍守護をしますので、バルチック艦隊について、ご心配に及びませぬ」 と言って消えたという話です。 昭憲皇太后は 坂本竜馬の名前は知っていましたが 顔は知らないので 側近に坂本竜馬の写真を持って来させたところ 夢枕に現れたのは坂本竜馬と分かり驚いたそうです。 このことが新聞に大々的に報道され 当時 無名に近かった坂本竜馬の名が一般の人に知られるようになったと言われています。

坂本龍馬が誰でも知る存在になったのは 1963年から1966年にかけて全5巻で刊行された司馬遼太郎著「竜馬がゆく」であることは言うまでもありません。
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坂本龍馬像

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月見の名所として知られる桂浜

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南西端の下竜頭岬

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下竜頭岬の竜王宮

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北東端の竜頭岬

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竜頭岬・竜王宮からの眺め

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この記事へのコメント

名なし
2019年08月22日 10:02
文字が薄墨?
縁起が悪いし見難い もっと真っ黒にしないか?
白象
2019年08月22日 15:13
名なし様
ご指摘の如く文字が薄墨なので記事のみ(表題と写真説明を除く)文字を黒に直してみました。 同じウェブリブログへの投稿者の記事も薄墨なので 薄墨が標準なのだと思いますが 記事ごとに薄墨を黒にして投稿するのは面倒なので ウェブリブログ事務局に問い合わせ中です。

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