旅順の「203高地」頂上にて日露戦争を想う

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日露戦争(1904~1905年)で最大の激戦地となった旅順の203高地を 自分の目でいつか見たいと思っていましたが 7月初旬に旅順・大連を訪ね その夢がようやくかないました。 3泊4日の旅行を私のブログで3回(3テーマ)の記事に分けて取り上げることにし このページは その第一弾「旅順篇」です。

203高地を訪ねてみたいと最初に思ったのは 今から30年ほど前に司馬遼太郎著「坂の上の雲」を読んだ時ですが 同じ本を図書館で借り 203高地攻防の部分を旅行から戻って読み直してみたところ 大連 旅順 203高地 東鶏冠山北堡塁 水師営会見場旧址などを実際に自分の目で見た後だったので 30年前に読んだ時とは異なる面白さ発見しました。

旅順における激戦で ロシア軍に比べ日本軍兵員の損害が極めて高かったことについて 司馬遼太郎は「坂の上の雲」の中で次のように説明しています。 

旅順における両軍の兵員の損害を比較すると ロシア軍の戦闘員は4万5千 このうち死傷は1万8千余。 さらにこのうち死んだ者はわずか2千から3千人に過ぎない。 大要塞に守られて巨大な火力をもっていたとはいえ これだけの激戦で 死者が2千から3千人というのは攻撃側の日本軍のそれに比して極めて少ない。
日本軍の場合は 兵力十万。 そのうち死傷六万二百人で 六割の損害というのは世界戦史の上でもまれである。 さらにこのうち死者は一万五千四百人で 一割五分という凄惨さである。 さらに第一線で戦闘した将校の死傷率はもっとも多く 全期間を通じて無事開城まで戦線に立ちえたのはわずか十余人にすぎなかった。 とくに下級将校は白刃をふるって隊のまっさきに進まねばならなかったので まっさきに機関銃の餌食になってしまったのである。 日本軍主力の歩兵はあれほど勇敢に おそらくこれまた世界戦史に類をみないほどの勇敢さで戦いながら その死の多くは単に要塞の砲火の機械的犠牲になったのみで とくに前半は要塞防御をおびやかすほどの効果があったとは思えない。


旅順の戦いで 日本軍の犠牲が多かったことについて 漠然とした理解を今までしていましたが 上記のような具体的な数字を今回読み直して知り 凄まじい戦いであったと再認識しました。  

日本軍の犠牲が特に多かったことについて 司馬遼太郎は 第三軍司令官・乃木希典と参謀長・伊地知幸介の無策・無能に原因があったと バッサリ切り捨てています。

私は 毎年正月に赤坂にある乃木神社にお参りしており 家族を含め今までつつがなく過ごせたのは全て祭神・乃木希典の霊験があらたかであるからと信じています。 従い その乃木希典が司馬遼太郎に無能呼ばわりされるのは 私にとって甚だ不本意で辛いものがあります。

旅順の戦いで日本軍の犠牲が多かったのは 乃木将軍の無能さによるのではなく 大砲と機関銃に守られたロシア軍の要塞が極めて強固(難攻不落)に作られていたからではないでしょうか。 

写真上は 旅順攻防戦の終わり近くになって日本軍が日本から運んで用いた日本式280ミリメーター榴弾砲(りゅうだんほう)という大砲のばけものです。 大砲本体の重量10.8トン 砲弾の重量217kg 射程距離7.8kmというもので ロシア軍の要塞を破壊し旅順港のロシア艦隊を撃滅する上で威力を発揮した優れものです。 この大砲は 東京湾内に入る敵国軍艦を撃沈させるために観音崎などに据え付けられた(固定された)陸軍の大砲で 18門を野戦用に旅順まで運びましたが 初戦から利用していれば日本軍の犠牲は少なかった筈です。

犠牲者を多く出したものの 日露戦争で日本が勝てたのは ロシア軍の旅順要塞を第三軍司令官・乃木希典が最終的に陥落したからです。 もし乃木希典がロシア軍の旅順要塞を陥落できなかったら 満州と朝鮮半島はロシアにより植民地化され 更に日本もロシアの植民地になったであろうと考えると 乃木希典の功績は高く評価されてしかるべきと思います。 戦争の評価は結果が全てであり 乃木希典が無能だったかどうかはどうあれ 日露戦争に勝った乃木希典は褒められるべきです

日露戦争で最大の激戦地となった203高地の頂上から旅順港を見下ろしながら そんなことを想いました。
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203高地頂上に乃木将軍が残した銃弾の形をした慰霊碑

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203高地頂上から旅順港を望む。 頂上から旅順港までの距離は5kmで280ミリメーター榴弾砲の射程距離内

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日本軍の進撃を粘り強く阻止したロシア式150ミリメートルカノン砲

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日本軍歩兵に多くの犠牲者を出したバリケード後方に置かれたロシア軍の機関銃

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東鶏冠山北堡塁の頂上にある記念碑

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ロシア軍の要塞だった東鶏冠山北堡塁

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迷路のように入り組んでいるロシア軍堡塁の内部

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水師営会見所旧址。 1905年1月に旅順攻防戦で降伏したステッセル司令官と乃木大将が降伏文書に署名した場所

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両将軍が会った水師営会見所の室内

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